「伴沢さん、ちょっと。」
女性嘱託職員の市川が声をかける。またはじまるのか。
52歳の市川はおせっかいで有名だ。
この前も、入庁したばかりの丸井の休みが多いから注意する、と言いだしてちょっとした騒ぎになった。
実は市川の方が年休消化が多かったのに。
「毎日、美香さん目当てに住民票を取りに来る若い人がいるんですけど。」
鈴木美香。課内に鈴木が3人いるので、下の名前で呼ばれる。入庁3年目の27歳。新卒枠での入庁だが、社会人経験が2年。最近は新卒枠の半数近くが社会人を経て入庁してくる。
美香は美人が多いと言われた平成24年組でも特に目を引く存在である。深田恭子がさらにグラマーになった感じで、しっかりくびれたウエストにGカップとうわさされる巨乳の持ち主である。(ただし、Gカップは誰からも質問される前に他の女性職員に暴露した、という話)
服装は決まってタイトスカート。ハイヒール。そして谷間が見えるシャツ。
さらなる武器は接客中に絶やさぬ作り笑顔。前職の銀行窓口で培った能力のようだが、このスマイルとGカップを前に、来庁した男性はイチコロ、ということらしい。
ここは、首都圏からやや外れた中堅都市・大和田市の住民課。人口約30万人。中心部から15分も車で走ればのどかな田園地帯が広がる大きな田舎である。
ここの住民課を仕切るのが、入庁16年目の係長・伴沢。公務員が狭き門といわれた就職氷河期世代である。
といっても彼は公務員試験対策などろくにやらず、本人曰く「エンピツを転がしていたら合格した」。この一言で、ダブルスクールをしていた同期から嫌われているのだが。
大和田市の前任の市長が行革派の剛腕で、職員を一気に半数近くに減らしたこともあり、住民課の職員の大半が嘱託と呼ばれる非正規職員。40代から50代の女性が多い一方で、新入の正規職員を毎年受け入れている。おかげで中堅は伴沢ぐらいで、年齢構成は極めていびつだ。
職員を一気に減らしたため、企画部や財政部といった中枢部門に優秀な職員を集中的に配置せざるを得ない状況で、住民課のような末端の部署に優秀な職員はほんのわずか。そのほんのわずかの職員が仕切ることでなんとか仕事が回っている綱渡りの状況が続く。
住民課に配置される管理職は、次のポストを狙う住民課未経験の課長と、昇格の芽がない退職間近の課長補佐級。
伴沢の負担は大きい。
「わたしの方が魅力的だと思うんですけど」市川は冗談めかして言っているが、美香のことをあまりよく思っていないことの証左でもある。
「気のせいじゃないんですか?」
「さっきもしばらくロビーにいるな、と思って見てたんですけど、美香さんがカウンターに近づいてきた瞬間に住民票を請求するんです」
「たまたまじゃなくて?」
「昨日も、おとといも、なんですよ」
こういうことは女性の特殊能力か?と思うほど鋭い。特に市川は。伴沢はまったく気が付いていなかった。内部処理をしながらの窓口係長にはやむを得ない面もあるが。
偶然、3日連続住民票が必要だったのかもしれない。もしかしたら、市川の知らない美香の知り合い? ただ、ストーカー事件もあったばかりで、警戒しておくに越したことはない。
ちょうど、美香がその若い男の接客をしているところであった。
いたって普通である。Tシャツにジーパン。ななめ掛けのカバン。めがね。細身で身長は175ぐらいか。大学生とも思える。
特に危険な印象は受けない。
「美香さん」接客を終えたタイミングで自席に呼んだ。
「3日続けて同じ人が来てるって聞いたけど?知り合いか何か?」
正直、今日は美香と話をしたくなかった。
向かいの課のお局職員から「胸元を強調しすぎ!注意しろ!」とお叱りを受けたばかり。・・・女性同士で本人に言ってもらえばよいのだが・・・。
「ぜんぜん知らない人ですよ。たまたまじゃないですか?」
「そうか・・・変わった様子は?ほら、ストーカーとか・・・」
「係長、私、忙しいんですよ。私としゃべりたいんですか?」
逆なんだけど・・・。
「なにかあったら係長が守ってくださいね。代わりに刺されてくださ~い」
「わかったよ」
こういうタイプの女子は苦手だ。
翌日、本人は全く気にかけてないようだが、うわさ好きの嘱託軍団はその話題で持ち切り。そして、青年はその日も登場し、当たり前のように美香に住民票を請求した。
(4日はおかしい)
伴沢は住民基本台帳システムの発行履歴を確認する。確かに4日連続でほぼ同じ時間帯に住民票を発行している。
同時に、住基情報が目に入る。年齢は25歳。独身。母親と二人暮らし。父親は2か月前に他界していた。
住民票請求書の発行理由は空欄。自分の住民票を取得するのに理由はいらない。
「4日連続はおかしい。気を付けた方がいいと思う」
昨日のことがあったので少し億劫ではあったが、美香に注意を促すことにした。
「明日は有給なのでよろしくお願いしま~す。明日も来たら、市川さんにでも相手してもらうように言ってくださいよ。係長」
なんでも、窓口で電話番号を渡されたり、飲みに誘われたりはしょっちゅうで、彼は何も余計なことはしてこないから大丈夫、だと言う。
「あの人は私の胸をじろじろ見ないんですよ。係長とちがって」
「おいおい、オレがいつ美香さん胸を見たんだ?」
ふいに思い出したのが、歓送迎会での課長の一言。
新任あいさつで「女性職員の胸ばかり見ているように見えるかもしれませんが、皆さんの名前を早く覚えるために名札を見ていますのでご了承ください」と言って女性職員全員からドン引き。
さらに、伴沢の耳元で「美香チャンだけは違う。あのムネは見ちゃうな」と言って伴沢がドン引いたのである・・・。
「休みなら、明日は何もないな」
「係長、心配し過ぎですよ。それと、さっきのは冗談で、一番じろじろ見てるのはエロ課長」
「!!(おい、マジかよ、課長バレてるよ)」
次の日
美香の休みを知ってか知らずか、青年は現れず、伴沢はホッした。
(これで何もなさそうだな)
この日が事件の始まりだと、伴沢も美香もエロ課長もまだ知らない。(つづく)
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